いつものように(話題に)乗っかって、そのままどこかへ行こうと思う(どこへ行くかは分からない)。
「日本料理とフランス料理を星で(並列に)評価できるのか」という批判は、すでに新聞にまで書かれている。
それはそれとして、評価について、評価に支えられて生きてきたことに気づかず過ごしてきた身として書いてみる。
前回の記事で「誕生日は自覚できない」と書いたが、自覚できないものを対象に自身の人生を決めるとすれば、占いは評価にほかならない。(男性の場合)22歳が厄と言ったって、その頃に社会的な転機が訪れることの経験則でしかない。ちなみに占いでも、「あなたは20代前半に人生の転機がありましたね」と言って、続きを喋らせるのが定番だそうな。それはともかく。
小学校から通知簿の点数で小遣いの額が変動し、偏差値で大学を選ぶ頃には抵抗の端緒すらない(私個人もこれと大差はない)過ごし方をしていると、優劣について画一的なものの見方が無意識に身に付く。マラソンとサッカー以外で日本がアフリカに負けるはずがない、でもサッカーならブラジルの方が強い、国内の大会で三連覇なら次も勝って当然、ピカソの絵だから目を凝らして見る(芸大生の絵と違いも分からないのに)、同じくN響だから咳しない、大卒なら優れた人間、ピカソやN響に触れている人間はもっと優れた人間、フリーターは負け犬、食い物は牛丼かハンバーガー……(で、優れた人間が吉兆でごちそうさまと。キレイに落ちましたね)およそ「偏見」と呼ばれるものは全て、評価の繰り返し、積み重ねによって生じるものと考えられる。
一方、評価によって生じる<メリット>は秩序だろう。優等生がいて、劣等生がいて、真ん中がいて、話ができる。誰も彼もが三つのうちのどれでもなければ話ができないということだ。評価は、実に分かりやすく日々の生活に組み込まれ、便宜化されている。
新聞はコレステロールみたいに評価にも善玉と悪玉があって、それを決めるのはオレたちだと言いたいのかもしれないが、評価を評価するのみでは本質を突いていない。
私は法律家を志望していたとき、他に道が考えられなかった。別に親が法律家というわけでもないのに、奇妙なことだ。今は「流れで」葬儀屋にいきついて、初めて比較の対象を得たが、法律家が葬儀屋より優れているとも劣っているとも思わない(10人中9人は法律家のほうが優れていると言うだろうが)。だが、そう思ったから葬儀屋で働くのを決めたわけでもない。働いているうちに自然に溶けていったようだ。
世の中に優劣が溢れていることについて、とやかく言うつもりはないし、また言ったところで何も変わらない。ここまで読んで「それを妥協という」と思った人もいるかもしれないし、私も後に読み返せばそう思うかもしれない。それならそれで良いと思う。どこまでも階段を昇っていけるわけでもなし。
ただ、近くで「それで良いんだよ」と認めてくれる人がいないと不安になる。
なぜだろう。評価に生かされてきた人間の性か。
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