2017年10月22日

選挙管理委員、的な

 今日は選挙です。昨日聞いてみた。
 先輩A「明日休みやなあ」
 私「投票行けますね」
 A「どうかなー。忘れてまうかもなー」
 私「朝7時から夜8時まで一日中いけますよ」
 A「今回の当てもんは当たるかなあ??」
 私「当てもん?(注:「当てもん」とは標準語で「くじ」くらいの意味。それが分からなくて聞き返したわけではない)」
 A「だって、当てもんみたいなもんやん(笑) 当たるかなあ? あ、当たった、みたいな。まあ、当たったからって何がもらえるわけでもないんやけど(笑)」

今日も出勤なので聞いてみた。別の後輩Bに。
私「投票行った?」
B(顔強張る)「いや、ね? 行こうとしたん、ですよ?」
私からこういう話をされるとうっとうしいことになるとよく分かっている。
直前に引っ越して前の住所のままだから面倒で行かなかった由。
 私「そういう人のために期日前投票っていう制度があってね」
 わざとうっとうしい言い回しにする。うっとうしいと思われているならそれに応えねばなるまい。

 まあそんなもんです。全国的に雨ですし、投票率は下がるでしょう。
 私は周囲に選挙に行くように言うだけで、誰へ(どこの党へ)入れるかは訊きません。他人の思想には立ち入らない。面倒くさいし(笑)
 私自身も、(民主主義構築までの)先人の努力に敬意を払って投票に行くだけで、別に政治的な思想があるわけでも、誰かの政治に希望を抱いているわけでもありません。純然たる無党派層で、以前は選挙に行って用紙を渡されてから初めて考えて立ち往生したこともありました。

 今日はいつもより投票所で考え込んでる人が多かったです。
 私は出勤前で時間がないのであらかじめ考えておいた人をさっさと書いて出ましたが。
posted by あらやしき at 10:35| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月21日

今シーズン絶望、もとい、終了

 今シーズンの公式戦は終了しました。ポストシーズンは佳境ですが、阪神(ファン)的には終了です。
 今年はずいぶん楽しませてもらいました。開幕当時はどうなることかと思った(予想をブログに載せてないのでどういう予想をしたか覚えていない)が、十分強かった。さらに強い広島がいたために優勝はならなかったけど、今年は(一昨年とかとは違って)シーズン自体も十分見応えがあった。ヤクルトだけはどうしようもなく弱かったけど。

 一ファンとして言いたいことは細々あるけどそれは言わずにおくとして、今シーズンは人生で一番数多く球場まで試合を観に行った。義母が亡くなったときもチケットをとってあって、行けなかったが素晴らしい試合で相手チームを圧倒した。義母も天国でさぞ喜んでいるだろう(ちなみに義母は阪神ファンどころか野球に一切興味がなかった)。

 公式戦最終戦も順延が重なり休日になったので、当日にチケットを取って安藤選手と新井良太選手の引退セレモニーに立ち会った。影響されやすい性格なのか、いざその場にいると感慨がこみ上げてきた。そんなにファンでもないと思っていたが、どうしてもその日は甲子園へ行かないと後悔するとの思いがあった。

 しかし、今シーズン一番の思い出は糸井選手のファールボールが直撃したことだ。
 そのときは奮発して内野席でもだいぶバックネットに近い方の席をとった。もちろん一塁側は手に入らないので三塁側だが、網がかかっているほど真後ろ(の良い席)ではなく、座ったときに左バッターのファールがライナーでまともに飛んできそうな位置だと思った。しかし同時にピンポイントで顔面に飛んでくるということはないだろうとも思った。で、実際のところどうだったか。

 家に帰って録画で観ると、外角のストレートをカット気味にバットを出してのファールだったので、バッターのスイングによる威力というよりは投球の威力かもしれない。直線のライナーではなく、少し弧を描いた打球だった。

 ただし、客席は打席よりも高いところにあるので、そのややフライ気味の打球は球場にいた私にはまともにライナーに見えた。打った瞬間から真正面でこちらへ向かって来たので距離感が分からない。もしや、とは思ったが、途中ライトが重なり打球を一瞬見失い、その次の瞬間には「来る!」と思った。(あれでどのくらい距離があったんだろうか? 数メートル?)私は顔を避けるためと、あわよくばつかみたいと思って右手を右頬の前に構えた――。

 右手に激痛が走り激しい音を立てて私の座席(の背もたれ)に激突したボールは高くはずんで遥か後方の席へ飛んで行った。球団職員が球が弾んだ後方で「怪我をした方はおられませんか?」と言っていたので、私は席を立って申し出て、医務室へ連れて行かれた。

 右手薬指(第二関節の下、根元の部分)が内出血と裂傷を併発していた。驚いたのは裂傷が側面から手の甲側にできていたこと。
 結局簡単な手当しかしてもらえず、やや不服を述べたが「今から病院へ直行するほどではないでしょう」と言われた。そう言われると試合中だし去りがたい。
 まるで自分からうれしがってボールに飛びついてケガをしたみたいに思われているようで腹立たしい。もし私が(弁当を食ってたりしていて)手を出さなかったら頬骨骨折とか失明もあったんじゃないかと思うが、ファールボールは自己責任だというから恐ろしい。

 右手薬指第二関節下、を強調しておくが、ここを負傷するということは、グラブがあったらばっちり捕れていたということ(私は左投げだから受けるのは右手だ)。そしてそれは私が野球が上手いからではなくて、それぐらい真正面に来たということだ。

 すぐにでも記事にできる内容だがいろいろ忙しくて書けないうちにシーズン終わりの総括的な記事になってしまった。今も右手薬指は曲げると痛いが病院へ通うのも大仰でほったらかしだ。

 つい先日もパ・リーグのクライマックスシリーズでホームランボールがお客さんの頭に直撃していたのをテレビで観た。観たかぎりその人は当たる直前まで狂喜乱舞していたが、大丈夫なのだろうか。私はボール一つもらえなかったが、その人はどうだったんだろうか?(ホームラン自体は跳ねてどこかへ飛んで行ったのが見えたので、その人は私と同じく実物は手に入れられなかったはずだが)

 打球の行方は危険なので、くれぐれも目を切らないようにご注意ください。
 目を切らなくても怪我したけど、目を切ってたら今ここにいられたかどうか。
posted by あらやしき at 16:34| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月20日

棚などを直しているときではない。

「ツチヤの軽はずみ」(土屋賢二 著/文春文庫)

 表現力:★★★★
 諧謔 :★★★★☆
 伝染力:★★★★
 総合 :★★★★

 
このように、小学生のころから面白いもの、楽しいものだけを読んできた。タメになるとか、教養を身につけるため、という理由で読んだことがない。教養やタメになることに価値があるとは思えないのだ。(中略)わたしの考えでは、タメになることを求めて本を読んでも、けっしてタメにはならない。第一、タメになる本しか買わないというのは、ケチくさいではないか(こういう人はわたしの本を買わないタイプだ)(165−166頁より)。


 世で繰り返し謳われる読書の意義を小気味良いほど斬り捨てる。
 本書はどこからどう読んでも、タメになることは何一つ書かれていない。読めばすぐにわかるが、たとえばこんな具合だ。
ピアノの発明が与えた影響ははかりしれない。もしピアノが発明されなかったら、「ピアノ協奏曲」とか「ピアノ大安売り」などは成り立ちえなかったであろう(78頁より)
暑い。うだるような暑さだ。埼玉県越谷市では四十度を超したという。サウジアラビアでは五十度を超しているだろう。水星では四百七十五度、太陽上では四千五百度だという。暑いはずだ。(107頁)

 バカなことばかり書いて、タメになることは一切書かないというスタンスを貫いているが、私も天邪鬼なので、タメにならないと宣言されると意地でもタメになることを見出そうとする。
 そう思って読んでいると、ひとつ気づかされることがある。

 作者は何においてもまず疑う。
「年があけると『おめでとう』というが、年が明けるのがなぜめでたいのだろうか」(19頁)
「それにしても、正月という、たんに人為的にもうけた区切りによって、手垢にまみれた心が一新され、すがすがしい気分に包まれるのは不思議である」(25頁)
「新聞に書いてあることは、必要十分なのだろうか。(中略)わたしが何よりも疑問に思うのは、ニュースが多かろうが少なかろうが、割り当てられるスペースがほぼ決まっているということである(26頁)」
 挙げればキリがない。
 もちろん、本書も随所に嘘偽りやいい加減な記述が散りばめられ、うっかり信じると赤っ恥をかくようなものも含まれる。本に書かれていることをそのまま信じるなというメッセージなのだ(おそらくそんなつもりで書いてはいないだろうが読むほうがそういう風に読んでしまえばそう書いてあるのと同じだ)。

 ここまで疑わしい内容ばかりだと疑ってかかることをも疑わなければならないほどだが、疑うことは哲学の第一歩であり永遠のテーマ。そう、本書は哲学を実践的に説くこれ以上ない良書なのだ!
 氏は天才だ。もし氏がノーベル文学賞を受賞していたら、私はもう少しノーベル文学賞を評価していたけど(土屋賢二もまともに評価できないなんて、たかが知れてる)――笑。
 今後も見つけたら買って読むことにしようと思う。ヒマつぶしに。
posted by あらやしき at 23:42| Comment(0) | 趣味(小説・漫画etc)/ときおり一首 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月17日

こうしてはいられないが、こうしているほかはない。

 「狂人日記」(色川武大 著/講談社文芸文庫)

 表現力:★★★★★
 説得力:★★★★☆
 切なさ:★★★★
 総合 :★★★★★

 氏は天才だ。もし氏がノーベル文学賞を受賞していたら、私はもう少しノーベル文学賞を評価していたけど(色川武大もまともに評価できないなんて、たかが知れてる)。
 さて「狂人日記」。シンプルに狂人の日記。話は読むにつれて進んだような、進まないような。しかしそんな風に見せてしっかりと構成され、組み立てられている。
 文庫で300頁弱あるが、大半は主人公が見る夢や幻覚、幻聴の描写だ。けれどありがちな「どこまでが夢でどこからが現実か分からない」を主題に据えたり、幻覚や幻聴をおどろおどろしく、禍々しく描いたりはしない。冷静に、平静に、幻覚や幻聴を淡々と描く。

 読むうちに、幻覚や幻聴への作者の愛情を感じずにはいない。
 どれだけ幻覚や幻聴が人格形成から離れがたいものか、テーマとして大切に扱っているかがわかる。
 ここまでの執着と表現力で真正面から狂人を描ききれる人は私が死ぬまで現れないのではないか。少なくとも日本では。
 楽しい小説ではない。面白い小説でもない。でも目が離せない。

 ほぼ全て読んだときに、今さら日記形式だったことを再認識した。
 すると読者はどういう状況で読んでいるのか。一番想像しやすいのは、主人公が死んでその傍らに転がっている日記帳をめくると――という状況だが、いずれにせよ読者はこの日記を本人(主人公)に断らずに読んでいる、と考えるのが自然だろう。
 他人の日記(いまどきに置き換えれば携帯メールでもラインでも良いが)を盗み読んでいるという状況(を想起させること)、そのわずかの後ろ暗さが、作中の主人公の、他人を渇望しながら遂に最後まで他人を信じられなかった、という心境と重なる。これは裏参道からの道で、表参道はちゃんと(すなわち、幻覚や幻聴によって、誰とも世界を共有する(という幻想)感覚を体験できなかったために孤絶を深めた)あって、表参道がしっかりしているからこそ裏(参道)の読み方もまた味わいを深める。

 一言で言ってしまえば、私たちはどこまでも一人だ。一言で言ってしまえることを、氏は深く深く掘り下げる。一方では麻雀等を通じて多くの他人と深くかかわり、また他人から大いに尊敬され愛された氏が、である。

 狂人の日記と言ったが、実に深く身につまされる描写が至る所にあった。解説にもあったが、青年期に太宰を読んで感じる背伸びに近い親近感とはまた異なる、足元の痛みが傷であることに気づかせてくれるような優しさを伴った親近感を感じさせる。
 人はどこまでも一人だが、しかし自分に替わるものもまた、この世に一人といない。自分自身が世界なのだと、そういう大上段な言葉を一つも使わずに、点描のごとく丁寧に、丹念に、氏は孤独を描く。

 「海と毒薬」(遠藤周作著)のときにも書いたが、このしょっぱさこそが日本人のふるさとの味わいだ。
 西洋人なんぞに理解できるはずもないし、されたくもない。
posted by あらやしき at 23:24| Comment(0) | 趣味(小説・漫画etc)/ときおり一首 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月28日

まさかそんなこと、あるはずがないんだからA

 「枝野が勝ったら分裂する 前原が勝ったら消滅する」
 電車の吊り広告で、週刊誌の見出しに笑った。なかなかセンスあるじゃない。
 少し前の、民主党の党首選の直前の話です。

 まあ週刊誌の書くことだし、実際に消滅する訳ではないだろう。中がガタガタなのは確かだけど――と思っていた。実際、昨日私はこんなことを言った。
 「もしもの話、前原さんが民主党やめて希望の党? に入ったとしたら、それって究極の民主主義じゃない?」
 「どういうこと?」
 「だって、党員が党首を気に入らないからって人気の党首のところに殺到して、それでその党首までもがその組織に属したらさ。変わったのは党首だけってことでしょ?」

 もちろん皮肉で言いました。まさか翌日実現するとは思わなんだ。
 たしかに自民党の初日解散はひどい。
 だけど、民主党もこないだ党首選をしたばかり。筋通してるのは(党首選の前から離党した)細野さんだけで、あとの連中はいったいなんなんだ。前原さんにしても「名を捨てて実を取る」って。捨てたのは名だけじゃないでしょ。そんなに捨てて、実を取れるのかい?

 分かってます。彼らがなんで踊っているのか。
 民衆が、つまり我々が何の主義も思想ももたず、ただそのときの気分と雰囲気だけで選んでいるから。彼らはその意に沿うように行動しているだけ。彼らが馬鹿に見える人は、誰がそれを選挙で選んで、今そうさせているのかをもう少し考えた方が良い、とね。

 AVと違ってこっちは実現してしまってますが。
 微塵もうれしくないですね。
posted by あらやしき at 16:05| Comment(0) | 社会について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月27日

まさかそんなこと、あるはずがないんだから@

 先日、とある安物の中華料理チェーン「王○」でのこと。

 私は一人で行ったのでカウンターにいて、席ひとつ空けてサラリーマンが座った。
 その人はラーメンを注文して、ほどなく来た。
 −−とそのときバイトのアジア系の女の子がラーメンを滑らせてテーブルに傾け、サラリーマンは膝あたりに汁をぶちまけられた!
 「あっつ!」と言ってサラリーマンが立ち上がるもすでに手遅れ、膝より下と足元にあったカバンに汁がかかっている。
 私は被害はなかったが、私だったらどうするだろうと思いながら見ていた。私も仕事中だったから服装(汚されたら仕事に差し支える)も同じようなものだ。
 「スミマセンデシタ。ホントニ、スミマセンデシタ」とひたすら謝る店員にその人は文句を言わなかった。 それで何もなかったように、またラーメンが来てその人は普通に食べてた。偶然、ちょうど私が食べ終わった時にその人も席を立ったので、その人の後ろから会計に並んだ。値引きとか、サービス(券もらえる)とか、あるいはその人も何か文句言うかなと思ったが、お互い何も言わず、普通に支払って店を出ていった。

 ラーメンの汁かけられて何のお詫び(値引き)もないの!?

 私は会計を済ませて店を出たとき、ふとAV(エロビデオ)の定番の演出を思い出した。
 喫茶店でメイド姿をしたウエイトレスが水(やコーヒー等)をこぼして客にかけてしまい、逆上した客にお詫びとしてセックスさせるという、アレです。

 改めて、あれは(男たちの)夢だったんだなと悟った。
 実際にはラーメンをかけられても文句ひとつ言わず、なんらの見返りも一切得られない(その人がどう思っていたのか知りようもないが)。あのとき私がかけられても、あの店内の雰囲気でクレームをつけられたとも思えないし、仮に言ったとしてもクリーニング代以上のものは請求できまい。
 AV(フィクション)の中でくらい、いーじゃない。そういう悲哀の声が聞き取れた。
posted by あらやしき at 23:57| Comment(0) | 社会について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月17日

オレのMCをSNSに書かないように

 indigo la End 全国ツアー「始藍」09/15 なんばHatch
 01 想いきり
 02 瞳に映らない
 03 悲しくなる前に
 04 ココロネ
 05 見せかけのラブソング
 06 猫にも愛を
 07 エーテル
 08 eye
 09 夢のあとから
 10 夏夜のマジック
 11 知らない血
 12 天使にキスを
 13 End Roll U
 14 プレイバック
 15 実験前
 16 鐘泣く命
 17 ワンダーテンダー
 18 夜明けの街でサヨナラを
 19 インディゴラブストーリー
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 01 忘れて花束
 02 渚にて幻(long ver.)

 まーひどかった! 川谷氏がね。
 冗談じゃなくて、こんなひどい演奏聴いたことない。かつて椿屋四重奏という人たちもまあまあひどかったことあったけど。20〜30人でいっぱいになるライブハウスでアマチュアのバンドの演奏聴いてたこともあるけど、それよりもよっぽどひどい。はっきり言って聞くに堪えない。
 曲が終わって拍手する聴衆の神経が信じられない。多くの人は絶対わかっているはずなのに。
 こんなに悪いものに拍手したらなにより彼らのためにならないと思うのだが。

 ココロネが始まったとき、これがひどかったら本気で帰ろうと思った。彼らのためにそうしないと仕方ない。私だけどうしようもない心だけ泣き止まない、大黒摩季ですよ、わかります?
 そしたらまあ、一応聴ける演奏だったので、とりあえず居ることにした。

 直後のMCでも不機嫌丸出しで、いつも同じ感想を抱いて知っているはずなのに、また「なんだコイツ?」と思った。たしかに前で声かけてた客はキモかったこととは思う(私は最後列にいたから彼女らが何を言っていたのかは聞こえなかった)が、仮にも客だ。「なんで俺はこんなキャラの濃い奴ばかり声かけられるんだ」って。それマイク通して言ったらダメでしょ。それも最初のMCの、第一声(「indigo la Endですょろしくおねぁいします」よりも先)で侮蔑の声色で。

 なんでも「朝起きたら腹痛がひどくて、ブラックアウトっていうんですか、目の前が真っ暗になって、立てなかった」と。「今日ここに立てる確率が朝俺の中で30%くらいだった」と。嘘ではないんだろうけど、だからといってあんなひどい演奏をして良い理由にはならない。できないならライブを飛ばして全員に金を返せばいい。
 私が夜勤で真夜中に呼ばれて遺族の前で故人をあわや落としそうになって「私熱あってしんどいんで。あはは」「ここに来れる確率が私の中で30%くらいでした」て言えるか? 言って金をもらえるのか? て話。
 こいつはなんで赤の他人の神経を逆撫でするのがこんなにも上手いんだろうか。

 わかってるのかわかってないのか、そのMC済んでから急に演奏がよくなって、いつものレベルに戻った。でもノレるかなと思うと途端に音がヨレる、ということが何度かあって、最後まで(信頼して)ノリきることはできなかった。ちゃんと弾けるかな、歌えるかな、とおっかなびっくり聴いていた。「俺はそういう『ノリ』みたいなの好きじゃない」って、GRAPEVINE先輩みたいにノリきれる演奏をちゃんとしてから言えよ馬鹿。

 この人のことは世間に広く知られる前から本当に椿屋のボーカルとは比べ物にならないほど嫌いだけど、演奏者(作り手)が鳴らしたい、作りたいと思う作品と私が聞きたい音楽が一番合致するのがindigo la Endなんだなあ。次は椿屋四重奏になるかな、やっぱり。
 なんでだろうか?

 MCはいつもにましてめちゃくちゃで面白かった。私のこれはブログであってSNSではないし、川谷氏の言うことを聞く義理など微塵もないし、どうせ私が書いても書かなくても、誰かが書いてるにきまってるんだけど、一応書かないでおきます。
 ティスさんの気持ちわかります。大変だろうと思う。だけどそれでも黙って隣で弾いてるのは、作品がすごい(と思う)からなんだろうなあ。なんで「プライベートでは川谷に絡まないようにしてる」奴がいっしょにステージに上がって隣で黙々とギター弾いてるのか、川谷氏は考えたことあるのだろうか?
posted by あらやしき at 21:41| Comment(0) | 趣味2(邦楽など音楽) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月11日

肉体の遠近法の彼方に、何か淫らな消失点を持っている。

「透明な迷宮」(平野啓一郎 著/新潮文庫)

 表現力:★★★★
 完成度:★★★
 一貫性:★★☆
 総合 :★★★☆

 頭でっかちな設定が流行とみて、編集が書かせてると私は思ってるんですが、帯にでかでかと下手な設定を書いて情緒も風情の欠片もない。
 村田沙耶香の「殺人出産」とか。やりたいこと(テーマ)は分かるけど、大掛かりな設定を全面に出されると途端に興ざめする。(想像力が足りないまま大人になったお前らには)こんな幼稚な設定じゃないと刺激も足りないし理解もできないだろ、的な。

 成功例でいえば「デスノート」とか「カイジ」とか「ライアーゲーム」とか。いずれも少し前の(流行りの)作品だけど、いずれにせよ漫画(原作の)作品のストーリーの作り方だと思う。まあ、ミステリー(洋館/密室殺人/etc)は昔からそうだけど、それらの設定は大上段でも美的感覚に優れていて、いまや様式美になっているから一緒にしてはいけない。

 文章に引き込まれるうちに物語に引き込まれて、気づけば(大掛かりな)虚構にすっかりはめられてる、というのが私の考える理想的な小説ですが、個人の嗜好なんですかね。

 さて、そういうわけで本作も帯を最初に目にしてたら買わなかったと思いますが、幸か不幸か我らが平野啓一郎氏の文庫は新刊であっても平積みされず、本棚に一冊ささっているだけなので手に取ってレジに直行すると帯を目にしないまま購入できてしまう。

 繰り返しになりますが表題作は残念な作品でした。もちろん素の実力はあるから興味深いし考えさせられるけど、如何せん設定が大仰かつ陳腐すぎて、そこまでしないと到達できない境地を描いた作品とは評価できない。また、娯楽なのかシリアスなのか、読んでてどっちへ行きたいのかが分からなかった。ひとことで言えばやっつけ仕事ですね。

 むろん、どんなに素晴らしい作家でもすべて名作というわけにはいかないから、短編一つハズレ書いた(否、編集に書かされた)ことを目くじら立ててどうこう言いたいわけではない。問題はこれを表題作にして帯までそれ一色にして、それで売れると勘違いしている編集の方だろう。読者を馬鹿にするにもほどがある。そんなんだから本売れないんだ馬鹿。

 その他の収録作について、はじめはアイデンティティに言及しているのか(「消えた蜜蜂」では筆跡、「ハワイに〜」と表題作では記憶を鍵にアイデンティティが揺らいだり壊れたりする様を描いている)と思って読んでたが、一冊通じてテーマが一貫しているというわけでもなかった。
 後ろの方の収録作は完成度が低く、当てたい一心で打撃フォームが崩れて、最後は外のスライダーに体が泳ぎ切って三振するバッターみたいな醜さを感じた。
 その合間に差しこまれている「family affair」が作品としてはもっともよかった。が、氏の能力はこんなものではない。やはり編集が無能だ。駄作を世に出さしめた罪は重い。
posted by あらやしき at 23:55| Comment(0) | 趣味(小説・漫画etc)/ときおり一首 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月26日

残暑お見舞い申し上げます

 ここのところ更新が滞ってます。たぶんしばらく続くと思います。

 身辺が落ち着かない。何を書いてもまとまらない。
 そんな状態なので会社の同僚や取引先など、他人と会って言葉を交わさなければならない場面ではこの言葉だけでしのいでます。

 「暑いですねえ」

 体調が悪いのも、心中が穏やかにならないことも、全部暑いせいにしてしまえ。
 暑さが引いたら治るという希望をもつためにも。

 生きていくだけで精いっぱい。
 今年中で目途が立つのか、死ぬまでずっとこうなのか、分からないけど。
 明日が四十九日です。
 どれほどの意義があるのかは、とりあえずやってみないと。過ぎてみないと。
posted by あらやしき at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月02日

親死子泣孫泣

 もちろん一休禅師の「親死子死孫死」から頂いています。
 私が考えるおめでたい葬儀です。

 葬儀で皆(子や孫)が泣いてて、なにがめでたいかと思われるかもしれませんが。
逆縁でない(ことがめでたい)というのは一休さんそのままですが、葬儀としてもう一つ。きちんと葬儀で泣けるというのは親子(夫婦、友人etc.)の情が健全に機能している証です。

 まず一つ、故人が90を超えるなど高齢すぎると子世代も70代を過ぎて、肉体も感情も(親子関係そのものも)摩耗して、悲しみの感情が現れない葬儀をしばしば見かける。

 一見悲しむことなく送れるならばその方がダメージが少ないようにも感じられる。しかし泣かなかったら悲しくないとか、悲しくならなければダメージが少ないと考えるのは早計だ。さまざまな理由からその時その場で感情を表現できないことは、かえってダメージを深く、長引かせることはすでに指摘されている。

 もちろんかねてから言うように、泣け(さえす)ればいい葬儀だというつもりは毛頭ないし、葬儀社が泣かせるのではなく遺族各々から自然に湧き出る感情を邪魔しない葬儀(社)が良い葬儀(社)だ。
 葬儀は故人と遺族その他参列者の関係の清算の場でもある。その関係が良好なら健全な葬儀が営まれるし、そうでなければ葬儀にもそれは反映される。

 というわけで「親死子泣孫泣」はおめでたい葬儀というわけです。
 とくに孫が20代前後で泣いている式なんて、どんだけいいおじいちゃん(おばあちゃん)だったんだ。身も蓋もないことをいえばありあまる金を持ってたってことだろうけど――なんて考える私はやはり尊属と健全な関係を築けてはいないようです。いまさらどうしようもない。
posted by あらやしき at 10:46| Comment(0) | 葬儀とその周辺のレポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする