2018年02月08日

「ぬかるんでから」

「ぬかるんでから」(佐藤哲也 著/文春文庫)
 
 幼いだけの密かな掟の上で君と見た
 夏の魔物に会いたかった 僕の呪文も効かなかった
 夏の魔物に会いたかった 会いたかった
スピッツ「夏の魔物」より

 混沌:★★★☆
 総合:★★★★

 「イラハイ」をもう一度読みたいのだが廃刊してて古本屋でも全然見つからない、という日々を十年以上過ごしていた(ネットで買うのはなんとなく怖い)。ないなら諦めてほかの作品を読めば良いということに気づいて本作を読んだ。

 短編集だが、各編それぞれについて暗号を解くように、これはこういうことで……とやってやれなくはないだろう。しかし私は(本作に限らず、およそ小説すべてに対して)そういう読み方に興味がない。一部の推理小説のようにそれ自体がエンターテインメントとなっているもの以外については、暗号で読み解けるならその(解いた後の)内容自体を書いておけば良いだけの話だ。

 なので設定や展開について不条理であったり理不尽であったり意味が分からなかったりするところはそのまま受け取ることにしている。
 だとすれば共通項を抜き出す解釈もナンセンスなのだが、本作各編の特徴として妻や父、叔父や祖父など、一般には近しい、親しいはずの存在が理解を超越した存在として主人公の前に立ちはだかる。
 たしかに古代ギリシャの昔からある「妻ほど恐ろしい存在はない」という暗喩もなくはないだろうが、おそらくはそれよりも読者を引き留めるための工作だろう。

 この内容だと登場人物は宇宙人とかの方が(訳の分からない事態や展開を受け入れるうえでは)理解はしやすいだろうが、作者の望むところはそうではない。自分の卑近な、すぐそばで目の当たりにする事象として受け取ってもらえなければいけないという要請からだと思う。
 だからSF小説(みたいだ)という理解は作者としてはもっとも避けたいところではないか。
 「頭の中ならなんとでも描けるよね」そうではない、むろん暗号でもなく、すぐそばで起こる現実の物語として、自販機に金を入れてスイッチ押したらジュースが出てくることと同列である、(と読んでもらえる)ように随所に工夫や細工がしてある。

 タイトルは「ぬかるんでから」だが、ぬかるむのは地面だけだ。空間や天井はふつうはぬかるまない。
 足元(現実)がぬかるんで、話はそれからだ、と。

 本作は面白かったが、それはそれとして、イラハイがもういちど読みたい。
 この人のはぜひ長編で読みたい。
posted by あらやしき at 23:03| Comment(0) | 趣味(小説・漫画etc)/ときおり一首 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月03日

「巧妙(な手口)」という言葉がぴったりだ

 携帯電話を買い替えた。
 いつも思うのだが、よくわからない。料金のことが。
 機種代とプラン(月々の支払分)と。

 内田百閧フ(棒先を切った女中の)話を思い返していたが、このブログで検索しても見つからない。
 記事に書いたのは確かなのだが、まさか…と思って一応探してみたら、はたして。
 こんなに前の記事だとは思わなかった。

 携帯代が9万ほど。それを48か月で割って、月々の支払が2千円弱。
 4年経てば支払い終わり。ならわかりやすいのだが。
 2年経った時点でまた買い替えたら、残りの2年分は払わなくて良いという。なになに。すると半額しか払わないことになる。
 その代わり、そのためには(というか、実際には選択の余地なく)毎月390円を支払わないといけない。ふーん? ……でも4年間、携帯代を払い続けて払いきったら、その毎月390円分は払い過ぎになるのでは?

 ――大丈夫です。その場合は4年間分、390円払って頂いた分はお返しいたします。
 なるほどね。
 ――さらに! 今なら一年間、毎月1000円値引きキャンペーン中です!
 それはアレ? 何か、別の月々支払いがあるサービスに加入するのが条件とか?
 ――いえ! そういうのはないです!(特定のプランを選べば自動的に値引きがある)

 まー、勢いというのか。
 昨日まで「携帯買い替えよう」なんて全然思ってなかったけど、なんとなく店に行って話聞いてたら、替えていた。
 というか、買い替えた方が月々の支払いが安くなった。今の携帯、4年以上持ってた(から本体の支払はないはずな)のに。

 実際には2年で買い替えても半額しか払ってないことにはならない(¥390/月×24か月=9360円余分に払っている)し、4年持ってて携帯代を払いきったあとの返金分には利息はついていない(まあ、この低金利の時代にその発想は古いのかもしれない。しかし店頭で「お返しします」と笑顔で言われた時は「トクだ!」と錯覚したものの、考えればそれは返してもらって当然の金だ)。

 たしかに2年キッカリで買い替えれば9万の携帯を5万5千ほどで使えることになるが、「(残り2年分の携帯代を払わない条件として)携帯を返却しなければならない」と明言されているので、実のところはリース契約に近い。
 2年定期のリースと考えて、9万の携帯を5万5千で「使用させてもらえる」契約と考えれば、「半額しか払わなくてお得!」と言えるのかどうか。(リースと言ってもデリケートな機械だし、途中でダメにしたら全額自費で買い取らなければならないのだ)

 店頭ではこれと並行してプラン(月々の支払分)の話もあり、それもまたややこしい作りになっていましたが、もう(書いてる私の方が)おなかいっぱいです。
 どこの携帯会社かはあえて言いませんが、どこの携帯会社でも大差ないんだろうな。

 というわけで、昨日までメールのやりとりをしてた方も、連絡先は転送しましたが履歴(これまでのやり取り)は手元にない。もっとも、携帯電話の料金ほどややこしい内容の話をしてた人はいないので、特段問題はありませんが。
posted by あらやしき at 23:05| Comment(0) | 社会について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月15日

ピテカントロプスになる日も近づいたんだよ

 当たり前のことだが、子どものときに亡くなった有名人と比べて、最近亡くなった有名人はなじみが深い。
 仕事でも同じで、入社したときになじみでしょっちゅう参列していた、うるさくも親しげな近所のおじさん達が亡くなったりする。
 私(たち葬儀社の人間)は仕事でも別れに触れる分、他の人よりもそういうことを感じやすい。

 先日先輩Aと仕事先へ向かう車の中で、思わず感慨を洩らした。
 私「みんな死にますね」
 A「ホントそれ。みんな死ぬよなあ」

 馬鹿丸出しの感慨で「当たり前だろ」と馬鹿にされるかと思いきや、しみじみとした返答に先輩も同じ感慨を抱いていたのかと親近感を覚えた。
 かつて森繁久彌が、誰かが亡くなるたびにインタビューで「みんな死んでいってさびしい」という内容のことを言っていて、それが晩年ますます情感がこもって最後は泣いてばかりいたのを、私なんかは(当時は自分が今より若かったし、森繁久彌になじみもないから)嗤って観ていたものだった。
 しかしまだ30代の半ばでこんな風に感じるなら、90も過ぎて50代や60代の俳優(つまり後輩)が次々亡くなるのをどんな思いでいただろうかと思うが、想像を絶する。血の池や針の山にも劣らぬ地獄ではなかろうか。

 いつ死ぬかを人は選べない(前にも書いた(参照記事@AB)が自殺によっても選ぶことはできないと私は考えている)が、死に時というのはあって、それを逃すとまた人生も苦しいものだと思う。もちろんその人のせいではないしどうしようもないけど。
 他人が若くで亡くなると、その人生でまだまだやれることがあったのではと慮って人は涙するが、いくつになっても未練を残して死んでこそ幸せな人生であって、それならやはりそれなりの時期で死ねたら良い。良いとは思うがこればかりはどうしようもない。
posted by あらやしき at 00:56| Comment(0) | 生について・死について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月13日

ダンシング・ヒーロー

 「ダンシング・ヒーロー」が去年から再び流行っている。
 ――と思われがちだが、実は以前から――特にここ数年――何度も荻野目洋子はこの曲でテレビに出ているのを私は見逃していないし、忘れてもいない。それは私がこの曲が子どものとき(4歳くらい)から好きだからだ。今調べたら私が4歳半くらいのときにリリースされた曲だった。記憶も案外正確なもので、つまり初めて聴いたときから心奪われて記憶に焼きついたということだ。

 子どものときから好きな曲と言っても、今とは違う。テレビは家に一台しかないしスマホはおろかパソコンさえない時代だ。こう書くととんでもない旧時代のようだが、ほんの三十年前は世界中が間違いなくそうだった。テレビで荻野目洋子が歌っていて、それが良いと思っても父親に「くだらん」と一言でチャンネルを変えられれば、次見られるのはいつになるのか分かったものではない(家にはビデオがなかったし、のちにビデオを買っても録画するのは親だけで、子どもは録画したいなどと言える環境ではなかった。第一テープを持たせてもらえない)。「ザ・ベストテン」が始まるまでには絶対に寝ないといけないのだ。

 子どものとき好きだった曲は「ダンシング・ヒーロー」と「東京砂漠」だが、これらの曲名と歌手名、歌手の姿、曲のあらまし等、曲に関する情報を一通り把握するまでに、大げさでなく十年かかった。マリオのときにも書いたが、それを望んだ時間が長すぎて、最初から最後までフルコーラス聴いたときの感覚は、言葉では表せない。
 もちろん今でも素晴らしい曲はたくさんあるが、あんな風に感じることはない。好きだと思った曲を、文字通り十年かけて聴くことなど、今では物理的に不可能と言っても良い。「能動的三分間」は3分で聴き終わるのだ。(逆に私が子どもの頃と同じ経験を現代の子どもがしていれば、虐待と言われるのだろう)。

 いま高校生のダンスと一緒に歌っている荻野目洋子は、もちろんその姿を当時のまま保っていてすごいことで、そのこともあって余計にそう思うのだろうが、あえて言葉で表現するなら仏を観ている感覚に近いかもしれない。ただありがたい。もはや歌を歌っている歌手ではないのだ。私のなかでは。

 それがあんなに出突っ張りだと、もったいなく思う。ありがたみが減ってしまう。
 だから私は上に挙げた楽曲は続けて3回以上聴くことができない。一般に使われる「好き」という感覚とは少し違うかもしれない。
posted by あらやしき at 01:04| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月04日

くっすん大黒 読了

「くっすん大黒」(町田康 著/文春文庫)

 総合:★★★

 物語の筋がほぼ無いようなままで一編書ききるのはさすがだが、独特のリズムの他に特筆すべき特長はない。他に氏の作品をいくつか読んだが、それらの方が面白かった。
 作者は本作をはじめに書いて、その後に作品を順次発表していった。そちらを先に読んでから本作を読めば、物足りないのも仕方ない。いわば人気作品の続編「U(ツー)」や「V(スリー)」に触れてから「T(ワン)」に戻ったようなものだが、それで面白かったことは今までの経験であまりないから、単純に読む順を誤ったのだろう。バックボーンに落語があるのが垣間見える。

 ただ、私としても別に作者の原点に興味があるとかではなく、古本屋で売ってる町田康の作品で一番安いのがこれだったという、それだけの理由で読んだ。
 最後は安易に話を繋げるのかと訝ったが作者に限ってそれはなく、大黒は最後までただの大黒で、そこは評価できる。ただ、町田康を初めて読むなら本作! と言えるような作品ではない。もっと面白い作品を先に読んでから本作を読んで「読む順番間違えたな」という感想を抱くぐらいでちょうどじゃないだろうか。
posted by あらやしき at 23:42| Comment(0) | 趣味(小説・漫画etc)/ときおり一首 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月28日

アイドルの意味

 今年もいよいよおしまいです。まー、一年通して何もしてませんけど。山を登るような、いわゆる「がんばった」ことは。一年どころか十年ほどそうですが(笑)ただ生かされている命を生きるだけ。他人にできるだけ迷惑をかけずに。私にはこれだけでも難しすぎるくらいです。

 時節柄紅白歌合戦の話題があがりますが、私は個人的に過去にないくらい楽しみにしています。また乃木坂やらの40何人集団がやらかしてくれるかもしれない。
 そう思って予習で聴き始めたんですが、「サヨナラの意味」は本当によくできた曲で感心してしまう。ベタで平板だけどそれなりに起伏のあるメロディに、キレイな女子に言われたら一瞬ドキッとするけどありえない歌詞(「電車が近づく気配が好きなんだ 高架線のその下で耳を澄ましてた」って、そんな美人は黒いシロクマがいないのと同じようにいない)で、去年の紅白での絶交宣言を聞いてなくても十分楽しめる一曲です。

 私はただ、ただただ、ああいう曲を書きたい。
 書いて、アイドルに歌わせて売れさせて、自分は顔も名前も出さず、まして何のパフォーマンスもせずに巨万の富だけを築きたいと、切に願いながら、ただ聴いている。
 じっとしてたらカネが転がり込んでくるなど、ただうらやましい。

 さてこの記事から分かるように、私は乃木坂46が大好きです。今年の記事は乃木坂に始まり乃木坂に終わった訳ですから。
 そればかりでなくさらに趣向を凝らしてまして、今年の私の記事を古い順に「乃木坂46」を一字づつ使った5つの記事の月と日をすべて掛け算すると、なんと私の推しメンのあの人の、あのときの、アレの数字になるのです!

 ――なんて言ってたら、そりゃ気持ち悪がられるわな。
 高架線のその下で耳を澄ましてた女がいたら無条件に気持ち悪がられるのと同じように。
posted by あらやしき at 13:57| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月17日

葬儀社員は悪魔か?

 葬儀社員が亡くなった乳児の頭部に処置としてコンビニのレジ袋をかぶせたことが親の逆鱗に触れ、裁判沙汰になるという報道があったらしく、会社で話題になっていた。
 なんでも体液の漏れを防ぐためにレジ袋をかぶせてその上から包帯で巻いたらしいが、一部が覗いていて、親が包帯を剥がすとはたして、という展開だったらしい。

 それがひどいと思うかどうかは人それぞれとして、我々もそれに近いといえば近い、危ないところだったことはある。生後間もない乳児の棺などない。子供棺でも大きすぎる。お菓子の箱か何かに入れるよう提案したところ「そんなものしかないのか! ひどい!」と叫ばれたり、(小さすぎて)骨が拾えないことを伝えると「なんとかならないのか! お前たちは血も涙もないのか!」と罵倒されたり。
 さすがにコンビニのレジ袋はちょっとひどいとは思うし、やるならやるでお客さんに一言断るべきだったと個人的には思うが、それと上に書いたこと(棺とか骨の件)とどう違うんだと、読んでいる人は思うかもしれない。

 葬儀社員は悪魔か。人の心をもたず、他人の死で飯を食う死神か。
 暴利をむさぼって、嘆き悲しむ遺族を背にせせら笑っているのか。

 これは私の独白ではなく、同僚(女子社員)がその話題のときにつぶやいた言葉です。
 まー違うと言ってもどーせそーなるんやろし、えーけど? 別に。と続きました。

 原因の一つは、件数が少なすぎて道具が揃っていないこと。
 あまりに生まれてすぐだと葬儀社が噛まないことも多い。私も呼ばれて行ったことがあるが、何もできることがない。ドライアイス(冷やす)と言っても洋菓子屋さんのドライアイスで事足りるし。
 二つ目は、(件数が少ないことも相まって)遺族の悲しみにまったく追いつけないこと。世界のすべてに裏切られたような心持でいる。棺にしたって、普段は素材も飾りもちゃんとした棺を勧めたところで「どうせ焼くだけの物なのに(そんなもので金を稼ごうとしている)」と悪態をつく癖に、乳児にお菓子の箱だったら「どうせ焼くだけだと思って(いい加減なものに入れようとして!)」と叫ぶ。
 身勝手に、そのときそのときで言いたいことを言う。百歩譲ってそれは良いとして、迷惑なのはそれぞれの身勝手を常に正しいと信じている。まー、それに応じるのがプロの接客ってもんなんでしょうけど?

 ま、私の会社ではないし別に炎上しようと知ったことではないけど。
 訴訟とまで言われるとさすがに同情を禁じ得ない。まあ、そのほかにも不審に思われるような行動があったのかもしれないけど。でもそれが葬儀社員が自分の車のなかで喫煙してたとか、違法行為どころか一昔前なら誰もが普通にしていた行為かもしれないからなあ。
 ホントに過ごしにくい世の中になったもんだ。
posted by あらやしき at 15:59| Comment(0) | 葬儀とその周辺のレポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月16日

第二回あらやしき文庫大賞

 さて、今度は文庫です。
 第二回 あらやしき文庫大賞! ぱふぱふぱふー
 大賞は…… −−の前にノミネートを出すのか。こっちは。(過去記事参照中)

 ノミネート作品はこちら!(読んだ順)
 「ティンブクトゥ」(ポール・オースター 著 柴田元幸 訳/新潮文庫)
 「ぶらんこ乗り」(いしいしんじ 著/新潮文庫)
 「夜と霧の隅で」(北 杜夫 著/新潮文庫)
 「予告された殺人の記録」(G・ガルシア=マルケス 著 野谷文昭 訳/新潮文庫)
 「狂人日記」(色川武大 著/講談社文芸文庫)

 読んだ本が(前回の大賞発表後から)22冊と少なすぎるのですが、どうにか20冊を超えたので表彰します。
 20冊を切った場合は私にその資格がないものとして大賞の発表はしないつもりです。貴重な記事のネタなので来年以降もなんとか頑張りたいと思います(笑)

 さて、大賞は。
 「ティンブクトゥ」(ポール・オースター 著 柴田元幸 訳/新潮文庫)
 です! ぱちぱちぱち

 評価の★でいけば「夜と霧の隅で」がわたし史上初の全満点評価ですが、「夜と霧の隅で」だけでなく、今年のノミネートに挙がった作品すべて、それらを楽しく読めたのは「ティンブクトゥ」を読んだからだな、と。作品として、一年間読んだ中で一番おもしろいかと言われるとかなり疑問ですが、本作が私に与えた影響がすごく大きいと感じるので。
 どのへんがどう、というのはとても伝えられないので、ぜひ読んでください。
posted by あらやしき at 22:48| Comment(0) | 趣味(小説・漫画etc)/ときおり一首 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月15日

輝け! あらやしきレコード大賞2017

 今年一年何があったのかと過去記事をななめ読みしましたが、ほとんど本かライブのレビューしかなく、何があったのか思い出せません。ニュース記事を取り上げなかった報いです。
 しかしこの一年どんな音楽を聴いて過ごしたのかは、わりと記録しているので思い返すことができる。とくに半期に一度書いてあるのは非常に助かります。
 とはいえこれまでのものもすべて結局下半期に聴いていた作品しか選ばれていないように思う(実際そうかどうかは検証していないので知らないが)ので、振り返ることができる限界が半年なのかもしれません。

 というわけで今年も上半期(半年前の記事)からは選ばれないことを言ってしまいましたが。
 今年はこちらです!

 「Crying End Roll」(indigo la End)

 ぱちぱちぱち。
 発売時期から、上半期にぎりぎり選ばれなかった(挙げようかだいぶ迷った)ですが、ずっと聴いてました。「鐘泣く命」一曲だけで十分大賞ものです。この曲のサビは私が6歳にときに作った「ピーナツの皮が世界中に落ちた」という曲とまったく同じ旋律なのですが、どうでもいいですね。ちなみにTHE YELLOW MONKEYの「空の青と本当の気持ち」のAメロとも同じです。
 その旋律を生かすリフやコードや歌詞がさっぱり浮かびません。

 なお、特別賞は「Finally」(安室奈美恵)です。
 25年間お疲れ様でした、ももちろんですが、最後もセルフプロデュースのバリバリの現役で素晴らしい作品を出しまくってるのが選考理由です。もっと手抜いて、もっと長く、もっと稼げるのに、すごいですね。
 私の趣味とは全然違います(小室で売れまくってた当時からそんなに聞かなかった)が、信念の強さとパフォーマンスの質に心から敬服してCDを買いました。お布施というか、お賽銭というか、そういう感覚です。

 さて、来年も素晴らしい作品に出会えますように。例年は少しの不安を感じてましたが、今はまったくそんな気はしません。自分が生きて耳さえ聞こえている限り、必ず素晴らしい作品に出会える確信をもって楽しみに過ごしています。それではまた。
posted by あらやしき at 12:24| Comment(0) | 趣味2(邦楽など音楽) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月13日

We must go on! (下)

もう一度触れられるのならずっと離れはしないさ
あの夏の夕立ぐらい泣いていいから
川のような道みたいに流してくれるだろう
外からなんて何も分からないさ

大丈夫僕ら君の味方だよ そうさいつも君の味方だよ
We must go on! 
THE YELLOW MONKEY「Horizon」より


 私は瞬発力がないので、会場でこれを聴いたときはただ「良い曲だなあ」としか思わなかった。
 東京から帰って改めて聴くと作品から溢れる優しさに驚いた。エマはそのクールな外見と言動から、(悪い意味での)リアリストだと思っていた。弟が吉井に勝るレベルのロマンチストだし(笑)

 この作品は(抜粋した箇所に象徴されるように)一見してメンバーから吉井へのメッセージだが、奇しくも私は会場でこれと同じようなことを感じていた。

 「(上)」の記事でも書いたが、吉井は「今日もたくさんのメニューを用意して」(皆さんを楽しませる、的なこと)と言った。私含めたくさんの観客はただ楽しみに観ているだけだが、やる方はそういう訳にはいかない。この日のためにどれだけアイデアを練って、準備して、練習したか。
 それはライブに限らず他の様々なパフォーマンスでも同じことだが、私が観た中で最大級に仕掛けが派手で大きかったせいか、それとも吉井はじめ彼らのなかから何か滲み出たものが伝わったのか、とにかくライブの最中に私はそんなことを考えていた。

 「外からなんて何も分からないさ」
 バンドを解散したことを吉井のわがままな振る舞いによるものと、漠然と捉えているファンはたくさんいるだろう。私もそうだ。最も直接的にはこの歌詞はそのことを否定したものだが、それだけではない。

 たとえば人が誰か他人を楽しませようといろいろ気を遣ったりしたこと、そういうのは大体成功しない。
 否、成功することもあるけど、その成果と準備は性質から異なる。人に喜んでもらうためにしていることなら喜んでもらえれば成功だが、喜ぶ側にもいろいろあって、ただ喜んでいられればそれだけで良いというものでもない。うまく書けないけど。

 私たちがパフォーマンスや演出に度肝を抜かれて、曲が終わった後暗転しているあいだに、彼らは次の準備に走り回っている。当たり前といえば当たり前なんだけど、その方向性の対立具合が美しくも切ない。それが私が彼らのライブの最中に感じていたことだ。だからこの曲を帰ってきてから家で聴いたときに、そういうことを表現したかったのではないのかな、と、勝手に思った。

 私はファンではないから客観的にそう感じたが、ファンを自認する人なら耐え難い解釈だろう。たとえば、吉井の苦悩は誰よりも私こそが理解しているのに心外だ、とか。
 決して(ファンの純粋な想いを)認めていない訳ではないが、そういうことではないのだ。何かを創ったり、それを演奏して表現したりするということは。

 We must go on! と言ってこの曲は終わる。mustという助動詞は英米では古典で、現在は全くといって良いほど用いられないと聞いたことがある。すべて「have to」だと。もっとも、女性誌に書かれる「この冬のマストアイテムはこれ!」くらいアテにならない、根拠のない言説だけど。
 これは「ねばならない」ではなく、強い意志、決意みたいなものだろう。だとすれば「will」が正しい。響きもその方が良い。
 だけどそれではこの作品で表現したい強い意志が伝わらない。だからmustを選んだ。こんな言葉使われないし正確でないことも承知で。そういうことだと思う。このタイミングでエマがこういう曲を描くこと自体から全て。

 表現する側と受けとる側の乖離、その切なさと幸せをライブでもこの作品でも感じた。
 それはもちろんエマとロビンの間でも起こる。当たり前だ。
 それでも僕らは君の味方だと言う。これが優しさでなくて何だろうか。
 まあ、私が勝手にそう思って聴いているだけで、これも受け手側の自由のひとつだが。
posted by あらやしき at 23:42| Comment(0) | 趣味2(邦楽など音楽) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする