2021年04月06日

言葉がなければ人は生きられない

 先日の続きを書き写します。書き写せば私も立派な人間になれると信じている、というとこれが少し違うのだが、信じるという言葉についても同じ本の中に書かれていたので、後日機会があれば紹介します。
 言葉はそれ自体が価値である、とは、聞き馴れた言い方をするなら、文は人なり、となるだろうか。
 安い言葉が安い人間を示し、正しい言葉が正しい人間を示すのは、実は誰もが認めている日常の事実である。
池田晶子著「新・考えるヒント」46頁より
 今や承認欲求という言葉が当たり前のように流布しているが、褒められたいという欲求は、その褒められた言葉を投げかけられることによって自分がそういう人間になる、そのことへの欲求ということになろう。ここで先生が言っているのは、自分の言葉(「もうだめだ」と思うと、そこからだめになる、的な事実)だと思われるが、ともあれ言葉のとおりに自分がなる、言葉に操られているという点では変わらない。
 確かに、すべての書き手は嘘つきである。小説家や物語作家に限らない。言葉を書くということは、「現実にはないもの」、すなわち何らかの意味や観念をそこにあらしめるという意味で、嘘をつくということに他ならない。しかしそれは、言葉というものの機能が本来そういうものであるという、それ以上のことではない。嘘をつく機能としての言葉を使って、どのように嘘をつくかというそこに、まさにその書き手の人となり、すなわち真実は現れているという事実の側には、何ら変わりはないのである。
 あるいは、きょうび人間の真実などというものは幻想なのだということが言いたいのだろうか。それなら、一生涯嘘をつき通した人間の人生というものを想像してみるといい。その完全に虚構の人生とは、真実そのものではないか。(同47頁)
 嘘ばかりついて生きている同僚がいるので非常に想像しやすい(笑) 嘘ばかりついている人の人生が嘘ではない。嘘ばかりついている人、と周りの皆から思われてる。言葉は真実を言い表してるわけです。わざわざ書くと当たり前なんだけども。

 実はこのあとに先日紹介した「私が言葉を語っているのではなく、言葉が私を語っている」に続くんですね。
 今日はその続きも少し紹介します。
 人間が言葉の中に生まれてくるのは、魚が水の中に生まれてくるのと同じである。水の中に生まれ、水の中で生き、水の中で死ぬ魚は、水の存在を当たり前に思い、その存在に驚くということをしないだろう。しかし、水の外に出た魚は、生きることができずに死ぬ。人間にとっての言葉とは、そういうものなのである。あるいはまた言葉を空気のように思い、当たり前にそれを呼吸しているけれども、空気がなければ人は死ぬ。
 いや言葉と空気とは違う、空気がなければ人は死ぬが、言葉がなくても生きられると、人は言いたくなる。しかし、違う。「生きる」とは、これ自体ひとつの言葉である。「生きる」というこの言葉がなければ、生きるということを言うことはできない。言うことができないところのものは存在しない。したがって、人は、「生きる」という言葉なしに生きることはできない。言葉なしに生きることはできないのである。
 このような言語観は、このような唯物的世界観の時代においては、容易には理解され難い。言葉は、言葉以外の何らか物的なものを示すための道具であり、人はそれを自分の自由に操れるものだと、深く思い込んでいるからである。ホモサピエンスによる言語発生論なども、この考え方の延長線上にあるものだ。しかし、思い込みを疑い、初心に還ってみればいい。言葉の初心、すなわち、この世界に生まれてきたばかりの赤ん坊の自分にとって、言葉の獲得とは、そのまま世界の獲得であったという、あの絶対的な事実を思い出すことだ。物を名指して、その物の名を言うとは、これを教えられる子供にとっては、その物すなわち世界の出現という、魔術的な出来事だったではないか(同52-53頁)。
 まあまあ、急にそんなことを言われても、俄かには受け入れられないかもしれませんけども、とりあえずそう言うんならそういうことにしておいてやろうかと、いったんは受け入れるのが本を読むときの所作にござりますれば、今しばらくお付き合いの程をお願いしたく存じまする。
 言葉よりも先に物の世界があると思うのは、その驚きを忘れ、言葉の魔術に騙されたまま気付かぬ者の、転倒した世界観である。だから彼らは、その世界観に基づき正しく「しょせん言葉だ、現実ではない」と言うのである。まさにその言葉によって、その世界観すなわち世界を自ら表出しているという事実は、自覚されないままである。(同53頁)
 (中略)想うほどにそれは、われわれの知っている幸不幸を越えている。言葉の存在は、われわれの生死を越えている。
 だからこそ、この種の言葉は、届く人には驚くほどの正確さで届くのでもある。そうでなければ、どのように読者を想定して、人は言葉など書いたものだろうか。これは、何がしかの理想論に聞こえようが、私は物書きとしての常識を述べているにすぎない。(同54頁)
 今日は(引用は)ここまでです。お疲れさまでした。

 著者は別の著作で、携帯電話の通話が無料になることに憤っていた。「いくら話してもタダだからこのまま話していよう」だなんて狂気の沙汰だと。自分の言葉も時間も無駄遣いして安売りして、自分から自分をどんどん安い人間にしていって、人は一体何をしているのかと。

 私の周囲にも、話す言葉が「薄っぺらい」人が少なからずいる。私はそういう人たちと会話を続けるのが苦痛だ。自分まで薄っぺらくなった気がするからだ。私の人生においては女性よりも男性の方がそういう人間が多いから、私は男性と話をするのが好きではない。
 その人たちに共通することは、なにがしか見せたい自分、こう見られたいと思う自分があるようだ。「ドラえもん」のなかで、スネ夫の自慢話が続くうちにいつしか嘘が混じってきて、さいごは嘘ばかりになるというくだりがたびたび出てくるが、あれを聞かされる苦痛に比べればまだジャイアンリサイタルの方がいくらかマシだと思う。
 
 ということは自分もそうだということだ。例えば私が「こんな難解な本を読んでいる俺はエライだろう」などという考えで本を引用しているようなら、本の真意は読み手に伝わらないだろう。さて本日は伝わりましたかどうか。
posted by あらやしき at 21:49| Comment(0) | 生について・死について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月31日

分からないからこそ、考える価値がある……か。

 先頃の哲学ブームの折である。どうも世界的にそんな情勢になっているらしい。なんとあきれたこと。そんなことを考えても仕方がないか。仕方がないとは思うけれども、やはり私は考えてしまった。すると、とある放送局のディレクターが、哲学ブームについて論じてほしいと言ってきた。私には、そのごく当たり前な物言いが訝しく思えて、口ごもる。するとろくでもない会話が始まる。これは実話であるーー。
「哲学ブームについて意見が聞きたい」
「哲学がブームになっているのですか」
「げんに何百万部と売れている」
「それとこれとは話が別だ。哲学がブームになるわけがない」
「わかりやすい哲学の本は、人々に受け入れられる」
「なぜ哲学がわかりやすい必要があるのですか」
「わかりやすく書かなければ、人々にはわからない」
「何がわかれば、わかったと思うのか」
「どうかわかりやすく言って下さい」
「私は真面目に聞いているのですよ。あなたは、ジャーナリストとして、なぜそんなふうに読者というものを見くだしているのですか」
「私は、哲学者としてのあなたの意見を聞いているだけです」
「むろんそうでしょう。私は話をはぐらかしてはいない。哲学者だって、読者だって、わからないからこそ哲学しようとするのでしょう。そうでなければ、人がものを考える理由など何があると思うのですか」
池田晶子著「新・考えるヒント」(43-44頁)
 ずっと書き写していたいが、あまり長くなると読まない人が増えてくる、という風に私が「読者を見くだして」いるので(笑)、少し飛ばして続き。
 読者を見くだす、読者には読めないと思うのも、同じ理由によっている。他でもない自分自身の投影である。なぜ、「わかる」「わからない」が、その言葉の価値を規定すると思うのか。わからない言葉をわかろうとするそこに、われわれは、自身の精神が自身のうちなる価値を見出そうとするその動きを認めるのではないか。他人からこれが価値であると、あらかじめ示されるような価値など、人は自身の価値として認められるものではない。価値は、自ら考え、自ら見出すことによってしか知られるものではないのだ。(同46頁)
 「ばえるー」などと言いながら、食べもしない、おいしいとも思わないタピオカなる食べ物を並んで買って、自分の顔と並べてカメラに収め、ネットに上げる。まさに「他人からこれが価値であると、あらかじめ示されるような価値」である。おそらく自身の価値として認めてはいないだろう。何も考えずに、ただ他人が示す価値をサルのごとく真似しているだけだから、認めるも何もないという意味だ。
先だって刊行された新装版註釈付き小林秀雄全集のキャッチコピーには、「わかる小林秀雄」とあったが、じっさい私は深く考え込んでしまったのだ。なぜ、「わからない小林秀雄」であってはだめなのか。(同)
 そういえばいつぞや、小林秀雄という故人の葬儀があって、私が「小林秀雄やん!」って言ったけど、その場にいた社員、誰も「?」みたいな顔だったなあ。
 先生、もはや「わからない小林秀雄」じゃなくて、「知らない小林秀雄」です(笑)
 インターネットの普及が、言葉の価値を下落させている一因だとも分析されているようである。誰もが気楽に自己表現できるようになり、書き手と読み手の境い目が曖昧になっているのだそうだ。
 私はパソコンを所有していないので、現場のことはよくは知らない。興味もない。ただ、そのような分析を聞いて覚えるのは、言葉とははたして自己表現なのか、その場合の「自己」とは何を指すのかという、強い不信の念だけである。
 自分のことを知ってほしい、自分の意見を聞かせたいなどの趣味が、私にはわからない。そのような人々は、それ以前に、他人の文章を真剣に読んだ経験をもたないのではないかという気がする。他人の文章を読んで感心する、感動するという経験は、自ずから、言葉は自他の区別を越えているという事実の不思議を考えさせるはずであるし、もしもその考察が正確に行われるなら、「自己」というものについての観念が、完全に転倒することになるはずだからである。私が言葉を語っているのではなく、言葉が私を語っているのだと気がつく瞬間というのは、人間にとって、少なからぬ驚きである。そのとき、巷で行われている自己顕示というものが、いかなる勘違いに基いているものであるか、よくわかるはずなのだ。
(同48-49頁)
 にわかに耳が痛い展開です。なぜ私はつまらない日常を公開することを止められないのか、自分にも分からない。別に私が何をしているか、どんな音楽を好んでいるかなど、他の誰にとってもどうでも良いことだ。そんなことは分かっている。ならそんなことは書くもんじゃない(と先生は言っている)。でも、そんなものでも書かないと月に数回の更新すら危うい。危ういなら止めれば良い(とーー以下略)。なぜ止められないか。私が無事に生きているということを、自分を含めた読者に知って欲しいからだ。それはなぜか。やはり自分のことを見ていて欲しい、ということなのだろう。
 それなら私はタピオカに並んでいた女子高生たちを嗤うことはできない。

 ところで、私は誰も読みに来なくなっても書くことを止めない。つまり自分が読むために書いている面もあるのだが、それはどういうことか。この当時考えていたことなどを書き留めて、のちに読み返す行為の意味は。
 自分に対して自分の人生を納得させたい、という思いがある。振り返って、あのとき自分は何をしていたのか。どうせ愚にもつかないことしかしていないのだが、そうであろうと記録がなければ消失してしまう。それに対する恐怖からだ。
 世の人はこまめに写真を撮っている。公開している人も多い。おそらくあれも多くは私と同じだと思う。自分が過去を忘れるということは、自身の消失と感じている人が多いのではないか(先生に言わせれば「その自身とは何か」という話だが)。若さを価値だと、老いを拒否する価値観が強くあるなかでは、ますますその流れは強いだろう。
 まだ続きに付き合ってくれる読者がいるものだろうか。
 近代的自我が崩壊して、人々の自己は電脳社会に解体したのだというのも最新の解釈らしいが、それにしては、当の論者も含め、誰も彼もがこうも自己顕示をしたがるのはどういうわけか。このとき言葉は自己顕示のための、最も手軽な道具ではあるのだろう。しかし、顕示したいところの自己が、元より無内容なのだから、いきおいそれは他人への悪口となる。嫉妬は最大の原動力である。ネット社会に横行する罵詈雑言はひどいものだと伝え聞く。それは、言われる通り空しい電脳の光景ではあるが、私は逆に、ここにも何か動物じみたものを感じてしまう。人間の言葉になる以前の叫びやさえずりのようなもの、あるいは、汚物をこそ好んで群がる蠅の群。人間の社会の体を成していないと言いたいところだが、実はとくに驚くべき事でもない。誰もが自分がそうであるところの事を為している、言葉と行為はここでも見事に一致しているという事実を、認めるばかりだからである。
 われわれはどうするべきである、どうするのがいいとは、考えるほどに、他人に向かって言えることではない。誰もが自分のしたいことを現に為している。ああくだらないことをしていたと自ら気がつくまで、他人が言うのは無駄である。(同49-50頁)
 最後になりましたが、作者は10年以上前に亡くなっています。つまりどの作品であろうと10年以上前です。たった今出たばかりの本のような内容で、「言葉は自他の区別を越えているという事実」をここにまざまざと見せつけられているんですけどね。自分語りと言われるような内容の記述は、なるべく無くしたいものです。
posted by あらやしき at 21:06| Comment(0) | 生について・死について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月23日

分かり合う○ひとつもなくても

 好きな音楽について書きたいところではあるが、今日は少し違ったところから書き進めたいと思います。

 私はこれまでに何度か「一曲紹介」としてその曲のメカニズムを解明する試みを書いた。
 そのなかにはいい加減ながら音楽理論めいた内容も少し含まれていて、人々に受け入れられる、ヒットする理由について解説する内容だった。

 だが、Cを入れたら明るくなるとかAmを入れたら暗くなるとか、テンポが速いから心が弾むとか、巷でよく言われていることは、理論というより経験則というもので、実際、なぜそう感じるのかは分からない。分からないというのはメカニズムが分からないというのではなく、メカニズムが分かったところで分かったような気がしているだけだということ。
 一つの曲(作品)について、そのメカニズムの一端を解き明かした程度のことでその音楽を理解したと早とちりするのは愚にもつかないことだ。

 だからそれは残念ながら無意味な記事だ。
 「イージュー★ライダー」のときみたいに、完全に独自の解釈なら読み物としてまだしも、上に書いたような一般論に終始しているものは、その曲の何を表したものでもない、愚にもつかない内容である。

 ネットを見ればヒット曲にはほとんどすべてと言って良いほど「歌詞の意味」などが紹介されている。ためしに読んでみると、読んでるこちらが恥ずかしくなるような愚にもつかないことが書かれている。思慮が浅いのも多いが、そもそも当たっているとか当たっていないとか、何をもって判断するのか。

 はっきりしておかなければならないことは、言葉が何かを表していると考えること自体を疑った方が良いということ。
 たとえば私は「秒針を噛む」の「分かり合う○ひとつもなくても」という一節が好きだ。
 これだけなら何の問題もないのだ。純粋に音楽を音楽として聴いて、それを感じて好ましく思っている。
 ところがこれを「解説」してみせたとする。
 「分かり合う○ひとつもなくても」とはどういう意味か、と。

 もうこの時点で音楽を鑑賞する仕方としては誤っている。音楽は歌詞だけではない。メロディもリズムもコードもアレンジも演奏も、全てが一体となっての音楽だ。だから、たとえ正しく解説できたとしても誤りだ。

 つぎにその解説も誤っている。というか、正解がどこにあるのか。
 作者がなにがしかの意図をもって歌詞を紡いだであろう、その意図を辿れば正解か。違う。
 作者の意図は作品が出来上がるまでの過程ではあるかもしれないが、出来上がった作品を正しく鑑賞する方法にはならない。そんなことは当たり前だとしか、言いようがない。
 そもそも「作者の意図」とは何か。それが言葉で言い表せるならわざわざメロディを書いて唄う必要がどこにあるのか。その「意図」をツイッターにでも書いて拡散すれば良い。
 作者の意図など言葉で言い表せないから音楽を奏でているのではないのか。これも当たり前としか言いようがない。

 にもかかわらず、「○とは句点のことである」あるいは「○とは正解のことである」、「その両方の暗示である」などと、したり顔で「解説」してみせる(これはインターネットで探してきた内容ではなく自分の頭で考えた内容だから遠慮なく斬るが)。分かり合う○ひとつとはつまり、一文(正解)を表すと。つまりワンセンテンス(正解)も分かり合えなくも、とこの歌詞は言っている、と。

 これを読んで「その通りだ」とか「間違っている」とか言って、「議論を深めている」気になっている。
 なんと愚かなことか。音楽や歌詞の表現、それを聞くということとは、そんな貧弱な内容の正誤を言い争って、それで議論したつもりになるための行為ではない。それが作者の意図であったかなかったか、そんなこともどうだって良い。

 大体、上の「解説」にしても、ただ言葉を言い換えただけに過ぎない(ほぼ全ての「解説」がそうだが)。言葉を言い換えて何が分かるのだろう? 生きるという言葉が分からなければ生き抜くと言い換えても走りきると言い換えても分からないままだろうに。

 何においても仕組みが分かれば分かったような気がする誤解も、いい加減辞めたが良い。
 音楽は音楽のまま受け止める。良いものは良い。好きなものは好きだ。それ以上を求めた時にそこから遠ざかっていく。
posted by あらやしき at 22:02| Comment(0) | 趣味2(邦楽など音楽) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月22日

あれから35年経過。

 やっとの思いでマリオをやらせてもらったときには、コントローラーを持つ手が震えたと申しました。
 あれから30年以上経って。
 こんなゲームを見つけました。

 「SUPER MARIO BROS. 35」
 https://www.nintendo.co.jp/switch/ayama/index.html

 ネットで通信を繋いでマリオで対戦するとは。夢のようなゲームです。

 しかし、なんと期間限定であと1週間しか遊べないとは。
 今知って愕然としてます。泣きそうです。

 私も大学時代をマリオに捧げた男です(などと言うもののマリオ以外にもいっぱいゲームしてたけど笑)。
 マリオで対戦? 負けるわけにはいかんでしょ。

 ・・・。
 ・・・・・。

 強い。強い人が多すぎ(笑)
 たった35人しかいないのに、1位がなかなかとれない。

 惜別の思いを込めて、スタッツを晒します。
DSC_0958.JPG
 というか、改めてプレイすると、やったことのない面の多いこと多いこと。
 所詮1−2からの3−1無限増殖からの4−2からの8面ワープ、しかやってなかったので。
 2面はともかく6面7面は全く手つかずで、そして難しい。

 まあ、やったことのない人、興味のない人も多いと思うので中身の話はほどほどに。
 残り限られた時間を大切にプレイしたいと思います。

 それにしても、気づいたのが遅かった。
 4月以降も続行するように署名活動とか起こらないかなあ。
 月1万までなら払ってでも続行したいがなあ。
posted by あらやしき at 19:41| Comment(0) | 趣味(小説・漫画etc)/ときおり一首 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月12日

面白いってなんだろう?

 おもしろい、って何でしょうね? 最近よく考えます。
 私もブログを書いていて、できることなら読者に「おもしろかった」と思ってもらいたい。
 この「おもしろかった」とは、何をもってそうなるのか。

 一番わかりやすいのは、お笑い芸人のそれ。笑えるか笑えないか。
 先日「R-1グランプリ」やってました。すべてのネタを見た訳ではないけど、笑えないものが大半だった。

 ただ、一人で舞台に出て行って短時間で笑わせる、観た人の印象に残らせるというのは、かなりの無理難題だと思う。
 今回は持ち時間3分というルールだったそうだが、そのせいか、とにかく奇抜な設定だったり、初めから「話の途中」だったり、展開に無理があったりするネタが多かった。

 シンプルにフリップ芸を展開するネタもあったが、それはそれで新鮮味に欠けるというか、既視感が強いのか観客席が温まってる印象は受けなかった。

 以前にも少し書いたが、今の人たちは「すぐに」「すごい」効果を「限りなく代償を少なく」求めることに慣れすぎている。
 私が子供のころには好きな曲を一曲聴くだけで十年かかったという話を書いたが、今なら携帯からストリーミングですぐに聞けるし、分からないこともネットで検索すれば大抵のことは調べられる。

 「3分で」「全員を」「無料で」「腹を抱えて笑わせろ」
 二人ならどうにかなるところを、一人だと途端に難しくなるということは、一人語りというのはエスプリの利いた「クスッと笑い」はともかく、爆笑をとるには向かないスタイルなのだろう。そのメカニズムは私には分からないが、とにかく無茶を言っているということだ。

 そのことに誰も気づかない訳ではないだろうが、誰も「自分にとっては」どうでも良いことだから深く考えることもしない。結果、無茶な賞レースを強要されて、一人きりで奇抜なことを大声で叫ぶという、「変な絵」になるのだろう。

 出場者にとっては同情されることなど罵倒されるよりも屈辱かもしれないが、R-1がいつまで経っても面白くなれないのはもはや出場者の問題ではなかろう。

 さてR-1の話が長くなったが、私が目指す面白いは、腹を抱えて笑わせることではない。一言で言えば意義深いということか。
 一つの記事を読み終えても次の記事が読みたくなったり、コメントを書いたら本文の倍になったりする(くらいに考えさせられる)ようなことだ。

 自分の昔の記事を読んでいるとつまらないものが多くて、つい愚痴っぽい内容になってしまった。
 かつて一生懸命、面白く読んでもらおうと頑張って書いた記憶はあるが、残念ながらそうなっていない。
 どのあたりがダメなのかが分かれば、失敗も活かせるのだが。
posted by あらやしき at 22:05| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月10日

年に一回のお祭り(2021年プロ野球セ・リーグ順位予想)

 今年もこの季節がやってきました。
 プロ野球セ・リーグ順位予想。

 今年は阪神が優勝します。
 いつも思うんですが、道頓堀に飛び込みたいなら今飛び込めば良いと思うんですよね。
 だって今年優勝するんだから。10月に飛び込む輩よりも半年以上早く飛び込めます。10月に飛び込んでるような奴は阪神ファンでもなんでもない。
 まあ、私は10月になっても飛び込みませんから今も飛び込みませんけど。

 冗談はさておき、今日の試合でもエラーから失点してました。
 あれが無くなれば20ゲーム差をつけて優勝ですが、あれが無くならないので8ゲーム差程度に収まってしまうかもしれません。まあ、大事なことは優勝することであってゲーム差ではないので。
 というわけで。

 1 阪神 2 巨人 3 中日 4 広島 5 横浜 6 ヤクルト
 1,2,6位は決まりです。問題は3位〜5位。これが分からない。まあ下位のことだしどうでもいいんですけど

 横浜はもともと優勝まである戦力を揃えながら監督の不可解な采配等もあり、昨年は3位に甘んじました。もちろん若い投手が粒ぞろいであり、かつ打線も依然強力であるなど地力では他の2チームより上と思われますが、今年は外国人選手が10人チームに合流できないとか、人気だけで監督としての実績のない人が新監督であるとか、未知数の点が多く計算が立ちません。開幕→序盤で流れを失うと星を取り戻せず、各選手が個人タイトルに走りそのまま下位かもしれない。

 広島も昨年は覇気なく負けを連ねてましたが、森下投手に加えてルーキーに良い投手が二人もいるようですし、いざ開幕したら勝ちまくっているかもしれない。結局は鈴木選手のチームなので鈴木選手の成績次第ではあるが。田中選手も今は良い感じで来てるみたいだけど、ダメだった時の遊撃手がどうか。ちなみに堂林選手はオープン戦でまだノーヒットのようですね。総じて選手の層が薄いのが辛いところ。
 ただ、シーズンを通してみれば打撃力よりは投手力の方が順位に反映されると考えてます。ハマれば一発あるかもしれない。

 中日も、横浜に比べれば地に足をつけて戦えるとは思うのだが、いかんせん迫力がない。開幕投手の指名を受けた福谷投手が今日ボコボコに打たれ、京田選手はじめ打撃が振るわず、打つ人が限られている。落合監督の時期を知っているだけに暗黒時代は深そうだ。
 ヤクルトの最下位は盤石と思っていたが、ヤクルトの方が危機感と活気があり、最下位は中日かもしれない。

 しかし、ここまで自信をもって「優勝する」と断言できるシーズンもそうそうなかったし、阪神にはぜひ頑張ってもらいたいところではあるが、残念ながら宿敵巨人のようにチームとして勝つためのノウハウに長けておらず、個々の選手の能力は高くても試合に勝てるチームかどうかは分からない。エラーもするし。

 というわけで、ぶっちぎりと言いたいところだが優勝するのは巨人か阪神かが五分五分としておきます。
 1阪神 2巨人 3広島 4横浜 5ヤクルト 6中日

 私は阪神ファンですがそれ以前に野球ファンなので、試合が無事に行われて、すべてのチームの選手が怪我無く全力でプレーに集中できることを一番に祈っています。欲を言えば気兼ねなく球場に試合を観に行きたい。

 なお阪神は優勝したあと、日本シリーズでソフトバンクに1勝4敗で敗れます。
 初戦、まさかの千賀投手を打ち崩し5−3で勝ち、あかん日本一になってまうー! からの惨敗続きにより終了です。
 それでもファンたちは(二年連続で全敗した)巨人よりはマシだ、などと、負け惜しみにもならないようなことを真顔で言ってました。

 ええ、見てきたように言いますが、見てきたんです。
 佐藤選手が何本ホームランを打ったかここに書いても良いですが、あまり言いすぎると皆さんの楽しみがなくなってしまうので、このへんでやめときます。
posted by あらやしき at 23:47| Comment(0) | 趣味(小説・漫画etc)/ときおり一首 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月01日

醜いのは仕方ない、偽ることは止めよう。

 若い人が自殺して、仕事で呼ばれた。
 私は葬儀社に勤めるサラリーマンでございます。

 で、呼ばれて家にあがって、2〜3分で打ち明けられた。
 「うちの子は、自閉症スペクトラム障害で統合失調症だったんです」

 両親ともずっと泣いてて「私が悪かった」て言い続けてるんだけども。
 いや、あんたら、全然そう思ってないだろう。

 私には臨床心理士の親友もいるし、それこそ患者もみたことあるし、自閉症スペクトラム障害や統合失調症が何か、たぶん普通の人よりも詳しく知っているけれども、それは単なる偶然で、知らない人が聞けば「うちの子はキチ●イだったから、私たちの言うことを聞かずに死によりました」としか言ってない。
 隠せと言いたいわけではなくて、本当に愛しているなら赤の他人にわざわざ我が子を誤解させるような言い方を最初にしたりはしないだろう。

 「あんたらの子は、自閉症スペクトラム障害のせいでも統合失調症のせいでもない、あんたらのせいで死んだんだ」と、本当のことを教えてやりたい衝動にかられたけど、客商売だからさすがにそれはできない。
 とくに父親の方。さっきからずっと疊を叩きつけながら大声で喚いてるけど、まったく涙も流れてないし、喪主をやるように促しても「今更喪主なんてやったって、うちの子は帰ってこない」とかなんとか言って、要は金を払いたくないだけだろう。
 ためしに料金の話をしてみると、やおら据わった目でこっちを見て「それはどういうことだ」「そんなにかかるのはおかしい」なんて。

 おいおいさっきまでの泣きっぷりはどこへ行った。子供を失って失意のどん底にある遺族さんも何回も話したことあるけど、●●が6千円だとか8千円だとか、金ならくれてやるからそんなつまらん話を詳細に話すなってたしなめられることの方が多いよ。

 あーあ、嫌だ嫌だ。子供が死んでも厄介者がやっといなくなったってホッとしてるのなら正直にホッとした顔で話を進めれば良いものを、そのド下手くそなウソ泣きは誰に対して続けているのか。かわいそうなのはこの子だよ。みてろよ、おじさんが仇とってやるからな。

 というわけで、葬儀の段取りや料金の話はそっちのけで、故人の話だけを聞きだすことにしてやった。するとどうなったか。
 故人が子供のときに一度だけ取った賞の自慢話しかしない。
 本当に子供のことを愛しているなら、運動会のリレーでせっかくアンカーになったのにコケてビリになったとか、節分の豆を外に撒いて汚いから食べるなというのに聞かず拾って食べてたとか、他人が聞いても「なんだそれ」としか思わないような、他愛のないエピソードが出てくるもんだ。
 他人様に聞かせられるような話はこれしかないと思っているのか、この期に及んで自慢したいのかは知らないが、どちらにせよ自分の子供のことを恥だと、厄介者だと思っている。

 「葬儀は二人で送ってやります」
 「それはコロナのせいですか?」
 「関係ないです。この子は精神的な障害のせいで友人が全くいないんです」
 はてさて、怪しいものだ。
 恥である自分たちの子供を、愛しているという体裁をとって誰にも近づけまいとしていたのではないか? 本当に幼少時から自閉症スペクトラム障害で、さらに統合失調症も患っていたなら、支援学校その他公的な補助があるだろう。なんにしてもそんなに若い人間が誰にも見送られないなんて不自然すぎる。

 ただでさえ病との闘いを強いられて、そのうえ両親にまでこのように扱われるとは、さぞ無念であったろう。そりゃあ死ぬしかないと思いつめても致し方ない。
 私は通りすがりの他人で、亡くなった後のあなたのことをどうすることもできないが、せめてここに記事に残し、ここを通りがかった人たちに見えるようにしておこう。
 そして、自分がそのような過ちを犯さないように心がけよう。
posted by あらやしき at 21:29| Comment(0) | 葬儀とその周辺のレポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月27日

あ、あー

 相変わらず音楽が好きでよく聞いてるんですが、このところイヤホンで聞くとどうも音が小さい気がする。
 とくに左耳に、乗り物で標高の高いところへ行くとなるような鼓膜の張りというか違和感を覚える。

 一週間くらい続いたので、耳鼻科で診てもらった。長年通っていて、信頼のおけるところである。
 一通り症状を話して、耳の穴もキレイにしてもらって、聴力検査して。
 さて結果は。

 医「左耳が聞こえにくい、ということだったんだけど」
 いつもハキハキしている先生が、話しにくそうにしている。なんとも無かったのかもしれない。
 それはそれで良いんだけど。

 私「なんともなかったんですか?」
 医「うーん。悪いのは、右耳なのよね」
 どーん。
 医「あと、鼻もあまりよくないね」
 しーん。
 医「左耳は、むしろすごく良いのよね」
 私「あ、あー」言葉がでてこない(笑)

 聴力検査をしているときでも、自分では右耳の方がよく聞こえている感触があったんだけどな。
 まあ、そういうこともあるので(あるのか?)皆さんも何かおかしいと思ったときは早い目に医者に診てもらった方が良いですよ。

 ――というのをネタのつもりで一人二人に話したら、わりと心配されてしまった。
 いや別に大したことはないです。よく起こるめまいも今回は併発してないし。
 
posted by あらやしき at 16:03| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月23日

唐突にブログの由来を紹介します

もしもこの僕が神様ならば 全てを決めてもいいなら
7日間で世界を作るような 真似はきっと僕はしないだろう
RADWINMPS「おしゃかしゃま」より
 さて1000記事も続いたことだし、ブログのタイトルの由来でも語っておきましょうか(適当)。
 もう13回忌も過ぎて、誰も当時のことはうろ覚え(もしくは知らない)だろうし。

 キャバクラの店名みたいだと友人に嗤われたこともあるが、タイトルを変えたことは一度もありません(たぶん)。
 7th heavenというのが、ユダヤ教やキリスト教やイスラム教でいうところの最高の天国を表します。7階層あるうちの最高層。

 7つの大罪は有名ですが、7という数字には特別な意味があるようで、ラッキー7も輸入ものです(初七日とか四十九日とか、仏教でも7は特別な意味をもちますが、輸入ものには変わりない)。
 キリスト教で言うところの神様が6日で世界を創造して、7日目を休みにしたことが由来だそうです。それが日曜日の由来なら、神様には頑張って2〜3日で世界を創造してほしかったところですが。

 できれば7th heavenとタイトルを付けられればよかったのですが、残念ながらそうはいかず。
 ではなぜ8th heavenなのかといえば、それは読者の想像にお任せします。
 ――イヤそこまでなら誰でも分かるわ、ということなので。個人的に好みではないが、作者の意図も書いておきます。

 まず理想的な世界をブログで表現したかった、という思いがある。
 どうにも宗教くさくなってしまうが、具体的には人生の価値とか、人生の目的とか、そういうことが指し示すことができれば成功、ということ。内容は雑多ですが、そこを目指していることは変わらない。

 けれど、それができないことは初めから分かっている。だから7th heavenとは付けられない。
 到達できないと分かっていることを、しかし諦めてはならない。6thでも5thでも良いんだけど、「そこへ到達した」という意味合いは持たせたくない(最終の目的地ではないから)。そしてできれば一瞬でも、7th heavenを見た、到達したかのような錯覚を起こしたい。希望として。

 それなら、まだ見ぬ世界。それを過ぎた数字によって、二つを実現できないか。
 そんなことを考えて8thにしました。あと「過ぎたるは猶及ばざるが如し」を実感することが多かったんですね。この時期。具体的なことは忘れたけど。

 それが大義名分です。
 個人的な話として、これの前にもブログをやってたんだけど、「結婚します」をラストに終わろうと初めから決めてたので、終わったんですね。「天つゆのない天丼なんて」ていうんですけど、これも紹介してなかったかもしれないので紹介します。たまに引用してますけどね。

 で、結婚して書くの止めようと思ったのが1か月続かなかった。
 再開するにあたって、結婚生活も同じ話だと。7th heavenを目指すけど到達できないと分かっている、と(笑)
posted by あらやしき at 08:59| Comment(0) | 理屈でないもの | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月22日

まあ、がんばってください(白目)

 同僚の子供が受験に失敗したらしい。
 私の大学の後輩になりそびれたと口を開いた。

 こういうときが難しいもので、自分では高学歴だとかエリートだとか欠片も思ってもいない(実際私は一つしか合格できず、あとは全て不合格だった)が、その人にとっては行きたくても行けない大学なのだから、謙遜するのも失礼にあたる。

 かといって「えっへん」的に思われるような発言は控えたいが、こちらは終わって20年も経つ身。思い出すように話すと、うっかり「上から目線」ということになりかねない。正直なところあまり話をしたくないが、他に誰もいない。さてどうしたものか。

 ――まだ後期は終わってないでしょう?
 「そんなん、無理ですやん。前期受からないのに」
 ――いやいや。諦めたら駄目でしょう。可能性があるうちはまだ分からない。

 ただ単に当たり障りのない慰めを述べたつもりだが、やはりそう上手くはいかなかった。

 「やっぱり〇〇大学に受かろうと思うと、そう思えるくらいの準備(勉強)がないとダメなんですねえ。ウチは無理なわけだ」
 ――いや、そんな(難しい)話じゃなくて。まだ試験があるんだから可能性は残ってる、ていう(だけのことで)。
 難しい話じゃないとか、だけのこととか、言ったらダメだな。気遣うわ(笑)

 「だって後期って、3人とか、若干名とか。倍率もすごく高いし。通る人いんの? みたいな」
 そうだったっけ? 言われればそんな気もするが、20年以上も前の話を今目の前にある人と同じテンションで話せない。

 しかし自分の発言には責任をもたないといけない。もう「そういうキャラ」でいくしかない。

 ――人数とか倍率とかではないでしょう。可能性がある限り諦めたら駄目ですよ。
 「おおカッコいい! やっぱり違うわ。ウチの子は予備校を手配してるもん」
 何も違わないよ。私は前期ことごとく敗れて後期は受験自体を取り止めたことを思い出した。たった今。

 まあ私の頭の中と発言から取り上げられる私の「(虚)像」とは全然違うけど、このまま行くしかないな。好きにしてくれ。

 ――お子さん、野球やってはったんでしょ? 同じ話ですよ。9回裏ツーアウト走者なし、2点差で負けてて、打席回ってきて、諦めますか? ていう話。
 私としては「準備(練習量)がどうとか関係ない」「自分一人ではどうにもできない状況でも諦めないことが大事」ということが言いたかったのだが、さて伝わっただろうか?
 「いやあ、ホントですねえ。でもまあ、2点差どころじゃないですけどねえ(笑)」
 うん、伝わってないね(笑)
 「息子にゆっときます。このくらいの考えじゃないと受からないよ、って」

 森喜朗さんもこんな感じなんだろうなあ。やはり気の毒だ(同情はできないが)。
 自分が思ってることとは全然違う内容で発言が世間に広まっている。女性蔑視を糾弾する側の人間に「老人だから耄碌してる」「森喜朗は失言を繰り返す(というイメージが強い)から今回のも失言だ」という思いはないだろうか?

 森さんを擁護するつもりはないが、もしそういう思いがあるなら、やってることは結局森さんと同じことでしょう。
 老人一般でなくて森喜朗個人を非難するなら、たしかにレッテル貼りではないが、しかし集団でよってたかって個人を攻撃するというのは、大人が子供に禁じてるいじめそのものでしょう。

 森さんの発言はどうかとは思うが、鬼の首を取ったように騒ぎ立てる人たちもどうかと思う。
 どうにかこの国がいい方向に向かえば良いなとは思うが、さてどうすれば良いのか、全くわかりません。
 さっきの会話もそうだけど、始まる前からレッテルが貼られてる状態だもんな。「息子が受からなかった大学を卒業した人」。

 私はなぜか分からないがそういう目に遭いやすい気がする。以前、相手が同僚ではなく上司だったときには面談で「君は〇〇大学を出てるのに、この程度のことも分からないのか?」と嫌味を言われたこともあった(後にその上司の息子が〇〇大学に落ちたと人づてに聞いた)。

 普段から理屈っぽい話し方をして、他人から「頭が良い人」と見られたくて仕方ないような、鼻持ちならない態度でいるのだろうか。
 森喜朗と同じだというなら、つまりそういうことだわな。
posted by あらやしき at 23:06| Comment(0) | 社会について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする